和声
最近ずっと、Aquaとユーフォのサントラをピアノで練習している。最初はただ音をなぞるだけだったのが、徐々に和声が耳に引っかかってくるようになった。改めて思うのが、和声ってすごすぎない?
昔から、自分は音楽を「意味」より「音」として聴くタイプだった。詞の内容より韻や語感。リズムと音色にしか反応しない、みたいなところがあった。でもここにきて、コード感とか進行の妙とか、そういう構造の面白さにも感動するようになってきた。
これって、おそらく“消費の質”がちょっと変わってきたということでもある。何かを享受するだけだと、どうしても感覚が飽和してくる。で、「もっと強い刺激を!」とスペクタクルを求める方向に流れてしまう。でも逆に、自分で弾いてみたり、踊ったり、二次創作でも何でもいいんだけど、「表現する側の経験」を挟むことで、消費そのものが細やかになる。より主体的で、解像度の高い消費。些細な差異にいちいち感動できるような、そんな変化が起きる。
仮にこうした消費を「生産的消費」と呼んでみる。シュンペーターの言う「プロシューマー」という言葉を、ぼくはわりと皮肉めいたニュアンスで、「生産というコンテンツを消費する人」として解釈することが多いんだけど、これはむしろ逆向きの話だ。「よりよく消費するために、生産をする」。
ドとド♯みたいな、単体で聴くとバチクソに汚い和音が、コード進行という文脈の中に置かれることで、不思議と意味のあるズレに変わる。そういうのにいちいち「わ〜〜〜」ってなるこの感じは、たぶん以前の自分にはわからなかった。スペクタクルとは真逆の、微細で地味で、それゆえに深い衝撃。こういう感動の仕方って、ちょっと地味だけど、長持ちする。